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ピアニスティックノート 美しい音を探求するピアノボディスクール

きたがわ かおり アレクサンダーテクニーク教師(仮免許)

二十歳のモテ期を捨てたわたしが手に入れたもの

(エッセイです。)

「このままこの家の娘になっちゃうのもありなのかな?」
三日目の朝、脳裏をよぎった考えにわたしは自分で驚いた。

二十歳の春休みに、わたしは本州でない遠くに住む知人の別宅を二泊三日の予定で訪れていた。ある人と過ごすためだった。

気が合う人。相性がいい人。誰しもそういう人にときにめぐり合う。
その人はいくつか年上の男性で、教育に携わっていた。そしてわたしと気が合った。

東京から来たわたしを、彼は空港まで迎えに来てくれた。テニスをしたりゴルフをしたり、ドライブをしたりした。
南国の草花を使ったデザートやドリンクをいただいたりもした。夜は知人ご夫妻と、その息子であるその人と食卓を囲む。

彼とは恋人ではなかった。が、どう見てもわたしは家族ぐるみで歓迎されている”てい”である。
二十歳の未婚女性がこの状況をどう捉えるべきだろう?

彼はどう思ってるのかな? 相手が大人すぎてわからない。手をつないだこともない人とそんな可能性があるのか。
ご夫妻は何も言わない。

そういえば、ドライブ中に彼からキーワードめいた発言があったことを思い出す。

これだけ仕事を任されていて、いくらぐらいはもらえるんだよ。
かおりくんは英語の先生になればいいんじゃない?
ぼくが結婚したんじゃないかって学生に噂されてね。

特に最後の言葉を話す声は弾んでいたような気がする。
空港から現れたわたしに赤いバラを一輪くれたけど、これって深い意味あったのかな?

教授と翻訳に取り組んでいると話したら、その書籍に関連するドキュメンタリーのビデオを送ってくれたこともあった。
会ったときには長いレンズのついたカメラでわたしを撮って、現像した写真を送ってくれた。
おすすめの映画として、愛と青春の旅立ちや慕情のビデオも送ってくれた。

映画の選定に深い意味があったのだろうか。

いやいや、とにかく楽しそうだから遊びに来たのだ。
それがどっこい、どうも予想以上に家族、なんですが!

当時わたしは大学で知り合った初めての彼氏と別れたばかりで、死にたいほど打ちひしがれていた。
まだ学生の彼と別れる前、二人でいる場に夏休みだった西の彼もきて、鉢合わせしたこともあった。

あの時デートの場からお引き取り頂いた西の彼が、春休みに遊びに来ればと誘ってくれたのだった。
失恋した女子大生が、実の父親とスキーにいったばかりだった。わたしにだってそのくらいの気晴らしは許されるだろう。
学生の彼はどうしたかと聞かれなくてありがたかった。

もしこれが恋愛なら、遠くへ会いにいくなんて、わたしのポリシーに反する、身上をつぶすような大盤ぶるまいだ。わたしにとっては、年の離れた兄のような感覚だった。今回はなにか巡り合わせめいたものを感じて、わたしは遊びに来ていた。

だが、なんなんだ、この雰囲気は。
まずい。予想以上にまずい。
なにより失恋直後は誰かとそんなに親密になるタイミングとして、極めてよろしくない。わたしはそう都合よく彼氏を乗り換えるような人間ではない!

とはいえ、彼も今まで通りの態度だ。大人ならそういう風に接することができるのか? 運転する彼を横目で見るが、わたしにはわからなかった。一つだけ確かなのは、恋人だった学生の彼といる時にはなかった、安心感があったことだ。

もしあの時核心をついた問いを訊かれたなら、わたしはこう答えただろう。
「今は大学もあるし、卒業したら東京で就職するつもりです。未来のことは考えられません」

入学して丸二年。必修単位に苦戦してきた日々を思い出す。それを無為にする気などなかった。

卒業して就職する。それは世間知らずな学生にすぎないわたしが、社会に出て自分の可能性をためすチャンスだった。
経済力をつけ、それを元手に、夢をかなえる手段だった。それをする前に人生を決定づける選択をするなどあり得なかった。

もし誰かが二十歳の女性と結婚を望んでいたら、卒業後どうするつもりかぐらい普通は訊くものだろう。滞在中のわたしにその質問がされることはなかった。
地方と都会は違う? いやいや。彼のお姉さんは地元を出て、都心で働いているではないか。

たしは三日目、予定通り東京に帰った。ふわふわした気持ちと少しのもやもや感をいだいて。

あれから手紙も来たし、返事も書いた。しかし都心で送る大学生活の臨場感は強く、あの三日間も私の中で遠い記憶となっていった。

順調に単位を取得し大学を卒業したわたしは、予定通り就職した。当時は思いもしない仕事に就き、さらに思いもしない転職もした。いつでも自分の生き方を誇れるように、とベストを尽くしてきた。

やがてわたしは彼とはもう会わないことを選び、それまでにもらった手紙や写真、ビデオを捨てた。
答えは既に、あの三日間で出ていたことに気付いた。数年後、人づてに彼に妻子ができたことを聞いた。

人生ゲームは車にピンを立ててマスを進めていく。そのほかに、どう転ぶかわからないルーレットで勝負するかを選ぶ瞬間がある。
ゲームでは人生最大の賭けは最後のほうに出てくるのだが、私の人生ではもう少し早かったようだ。

二十歳のわたしは、目の前に差し出された平穏を選ばなかった。わたしが人生で試してみたいことをなにより優先することができた。初めての失恋の渦中で、モテ期を捨てて、将来のルーレットを回すほうを選んだ。

その選択をした時、わたしはもはや小娘ではなかった。こんな自分ならきっと、願った以上の挑戦をしていける、そんな気がしたのだった。

8月に浴衣を出すとしんみりするわけ

「ゆかたと帯のレンタル500円だって。着物、好きなんでしょ?」
夫がわたしに声をかけた。幼稚園だった息子と三人で鬼怒川温泉に泊まった時、ホテルが女性用ゆかたをレンタルしていた時のことだ。もちろん「館内はゆかたスリッパでOKです」のゆかたではなく、花火に着ていくような華やかなものだ。
「うん、それはいいの」
真冬に思いがけずゆかたを目にしたわたしは、夫の提案を断りながら、あるゆかたに思いを馳せていた。

今わたしの手元にあるのは、緑がかったブルーのクレープ地で、夏らしい模様が施されているゆかただ。クラシックなデザインで、今風のものとはどことなく違う雰囲気がある。やまぶき色の帯と合わせるとよく映える。

「これお嬢さんに」
小さい頃から数年に一度、ゆかたをプレゼントしてくれるおばさんがいた。うちの家業でお付き合いのあるSさんだった。贈答品といえばハムやサラダ油、そうめんなどが主流だった昭和の当時、私と妹にゆかたを仕立てて贈ってくださるのだ。

はじめてのゆかたの記憶は白地に金魚のデザインのもので、幼稚園の夏祭りで着たはずだ。小学校の頃にいただいたのは濃紺の地に花火を思わせるデザインがされていて、幼いながら濃い紺色がクールで好きだった。

ひと夏に4か所の盆踊りに参加したときも、Sさんのくださったゆかたを着て行ったものだった。兵児帯という、絞り染めのくしゃくしゃした帯をしたのはその時までだ。隅田川の花火を見に行くときの濃い色味のゆかたには、赤い帯をしめた。そして今あるのが、最後に大人サイズのわたしがいただいたブルーグリーンのものだ。

浴衣にはその時代に流行のデザインというものがある。Sさんがくださるのは、いつもそういうものとは一線を画した伝統的なものだった。友達のものとはなにか違うと感じたが、本物とは得てして一見地味にみえる、こういうもののはずだ、と幼いながらわたしも察していたらしく、なにも言わなかった。

一つだけSさんの手によらないゆかたがあった。わたしが高校の授業で縫ったものだ。糸が見えやすいように白地に朝顔の生地を選んで、チクチクと針で縫った。悪戦苦闘したのち、こっそり母の助けを得て完成したそれは、夏のデートで日の目を見た。が、祖母がお風呂で急死したとき、とりあえず着せるのに使われるという、きわめて不運な別れをしてしまった。その幻の一着を除くと、ゆかたといえばSさんのものだった。

Sさんはいつもニコニコしていた。こんなに普段からニコニコしている人はいない、というくらい、誰よりもほがらかだった。目を細めているので、目を開いているところを見た記憶がない。同年代の人より腰の曲がりがやや目立っていて、いっそう小柄に見えた。

そうしてSさんのゆかたに袖を通して時がたち、わたしが嫁ぐ日が来た。当日は白いドレスなので、和装は前もって写真を撮っていた。朱色の打掛に文金高島田、白無垢に綿帽子の二本立てだ。式の前の日にできあがったアルバムを、わたしは家を出る朝にSさんに見せることができた。

「まあ立派な方で。よかったですねぇ」
「おきれいねぇ」
「ほんと、おめでたいですねぇ」
とても喜んでくれた。かつてないほど目を細めて。

ベイエリアの式場へ向かうタクシーの中で、幸せいっぱいなはずのわたしの胸がチクリと痛む。Sさんのその日はどんなものだったのだろうか、と。

母は、誰かがいらっしゃった後、その人のプチ情報を私の耳に入れることがあった。母の話と、Sさんご本人から聞かれた言葉を、私は十数年がかりで脳内で少しずつ統合していった。

Sさんは戦争中ご主人と結婚した。それも、出征の直前に急いで結婚させられた。妊娠したSさんを残してご主人はすぐ戦死された。それから子どもを一人で育てて暮らしてきた。生活のためにいろいろな仕事をしてきた。

いつも笑顔でやさしく話してくれるSさんと、そんな苦労に満ちた人生。私の中でどうにも結びつかない。そもそもこの青い東京の空の下で、戦争があったことが想像できない。

貸衣装を着せ替えてウェディング写真をとり、レストランで人前式と披露宴をする。ゼクシィから抜け出したようなわたしの結婚とはまるで別世界に思えた。

「花火はゆかたで行こうかな」
そう考えるとき、わたしにはいつもSさんのゆかたがあった。ほかのものを買い求めようと一度も思わなかった。それはSさんがひとりで生きるために身につけた技術で仕立ててくれたものだ。和裁は家で、仕事から帰ったあと、子どもが寝たあとにもできる。わたしにゆかたをあつらえてくださるより前、生きるために夜なべをする若いSさんの姿が思い浮んだ。

Sさんの浴衣のデザインが古典的だったのも、たんに彼女がお年を召しているからではない。預かった反物を裁って縫ううちに反物を見る目は肥える。本物とはどういうものかを知り尽くしたSさんは、当然わたし向けにもその審美眼で選んでくれたのだ。

Sさんはなぜかいつも一度も採寸することもなく、新しいゆかたを作ってきてくれた。記憶でみたわたしの姿から、次のときのわたしのサイズを予測していたのだろうか。若い男子はよく「彼女の思いのこもった手編みのマフラーは重い」などというらしいが、不思議なことにSさんのゆかたはそんなことも感じさせなかった。

Sさんは小銭を扱うことやそろばんが得意だった。それは生計を立てるため保険料の集金をしていたからだ。
「主人が亡くなってこうやって保険の仕事、してきましたからね。慣れてるんですよ」

そう話す時、Sさんの声にも表情にも一切の翳りは見えなかった。いや翳りがなかったのではない。わたしがSさんの笑顔をそのまま受け取っていたのは、単に子どもだったからだ。  

嫁いだときわたしより若かったであろうSさんが、新婚生活もないまま、夫を失い、戦争中にお子さんを生んだ。そんな人生に苦労がなかったはずがない。

Sさんは、働いて子どもを養い、生きていくなかで、自分の人生を正面から受け止め、一切の恨みごとも翳りも捨てようとされたに違いない。わたしが見ていたのは、おそらく何十万針も縫った、その末の笑顔なのだ。苦労を乗り越えたSさんは、せめて若いわたしは華やかなゆかたで装うことができるようにと贈ってくれていたのではないか。

もうすぐ8月の終戦記念日が来る。強い日差しと蝉の声。盆踊りが近づくと、わたしはゆかたとともにSさんのことを思い出す。今年はブルーグリーンのゆかたに袖を通して出かけてみようかと思う。

猛暑の為、8月のレッスン時間を変更します。


記録的な暑さが続いています。

7月の残り、そして8月いっぱい、猛暑の為、レッスン時間を一時的に見直します。

18-20時に限定させていただきます。

全館断水の日も休講となっています。

ただし、レッスンは夜だけにするため、開講日数は増やしました。

HPをご確認ください。

実習レッスンの生徒さんを募集しています。
猛暑の為、期間緩和: 8-9月の間に10回受けられる方。
そのほかは同じです。

アレクサンダーテクニーク教師・仮免許
北川香里

美しい音を探求するピアノボディスクール

  • 2018/07/26 (Thu) 09:38

天狼院メディアグランプリ掲載!傘を忘れた私が駅ビルに行ったわけ

ライティング講座を受講している天狼院書店さんのHPに、私の書いた記事が掲載されました。

傘を忘れた私が駅ビルに行ったわけ

以前ブログでも書いたライフハック記事をコンテンツに書き直したものです。

アクセスしていただけると幸いです。

17歳で頸椎ヘルニアになった私が風変わりな学校に入った理由~アレクサンダーという翼~《実習レッスン受講生最終募集開始》

鳥

「思うだけなんです」
体験レッスンのさなか、紀美子先生は言った。
「?」
私の頭はハテナでいっぱいだった。
アレクサンダーテクニークの学校を初めて訪れた私は、イントロと呼ばれる体験レッスンを受けていた。歩いたり、椅子に座って床の上のものに手をのばしたりするような、ごく普通の動作をする。しかし、先生が私の後頭部の下あたりに手を添えてくれると、不思議なほど体が楽に動くのだ。
なんなんだ、これは?
ピアノで、四半世紀ぶりの大スランプに陥った私は、アレクサンダーの門をたたいてわずか15分ほどで、魔法のような体験をしたのだった。

「首から来ています」
中国人らしいアクセントで、しかしはっきりと、王先生は私に申し渡した。
17歳の7月。高校の合唱部でピアノ伴奏を一手に引き受けていた私は、突然手の指が曲がらなくなるという不調に襲われた。まず右の人差し指からきてほかの指へ広がり、ついに左手にもしびれが及び始めた。期末テストも左手で答案を書くほどだった。部活では夏のNHK学校音楽コンクールに挑戦することになっていた。
「降板するなら早く決めるように」
指揮の子とともに私は呼び出され、顧問の先生に告げられたところだった。

「それって首から来てるかもよ」
音楽室にいたほかの先生からそう聞いた私は、ちょうどそういうのを診てくれる先生の存在を親から知らされ、藁をもつかむ思いで神田にある王診療所を訪ねたのだ。

「先生、お注射ですか?」
看護師さんがシリンジの針先から液を数滴出してみせると、私は一瞬たじろいだ。が、両手ともしびれるかを先生が確認すると、即座に頸椎のレントゲンを撮ることになった。
真横から撮ったレントゲンを先生は私に見せてくれた。素人目にもはっきり見えるくらい、椎間板が後ろに飛び出したところがあり、それが神経を圧迫しているらしい。
「これは痛いですね」
先生もやっぱり、という声音だった。
私は17歳にして、椎間板ヘルニアという病名を賜ってしまったのだ。

通院すると、周りは中高年の人ばかり。ほぼ最年少で制服を着た私は、「香里ちゃん」と呼ばれてナースさんたちに可愛がられる始末だった。とにかく不調を克服してまたピアノを弾きたかった私は、なににも優先して学校帰りに治療に通った。

その甲斐もあり、ヘルニアもひっこんできたのか、年末から練習を再開し、3月末の発表会でピアノを弾くことができた。ベートーヴェンのワルトシュタインソナタだった。あの日音楽室に同行してくれた指揮の子も、喜んでくれた。

だが、それも若さあふれる10代の話。牽引もいわゆる対症療法だ。体の動かし方に根本的な解決もないまま40代に入っていた私は、今回の不調がそう甘くはないことを思い知らされた。

今回は困ったことに前腕の内側の痛みで、椎間板ヘルニアとは違いまったく見当がつかない。
早朝、鋭い痛みで目が覚めた。痛むからこの2-3日練習はしていないのに。
「発表会当日の早朝に急に痛くなるなんてどういうことなんだ?」
「もうピアノ、あきらめるしかないのか?」

あんなに頑張ってきたのに、先生にもお世話になったのに。
努力に悔いはなかったが、私は自分の体が呪わしくてならなかった。
「今度はなにもしなくても痛くなってしまうなんて。どれだけ私はついていないんだ。」

アレクサンダーテクニーク教師になろうとしている今ならわかる。
今日が本番である、という正にその思考が痛みを生んだのだ。

「思うだけなんです。」
それはアレクサンダーと出会った日に紀美子先生が教えてくれたこと。
私の体は、私の思考によって動いたり、動きにくくなったりするのだ。

冒頭の体験からほどなくして、私はアレクサンダーテクニークの学校に通い始めた。
翌年には教師養成コースに入学してしまった。
苦手だった解剖学。10年以上ブランクのある英語。アレクサンダーの著作を読む通信講座。もちろんクラスに出席して様々なレッスンも受ける。合宿にも参加した。40の手習いという言葉があるとしたら、こういうことだろう。「思うだけ」という風変わりな学校で、さまざまなカリキュラムを学んだ。
「思うだけだなんて人に教えられるか!」と嘆いたこともあった。

同時に不思議なことが起きた。
ピアノでやりたいことがどんどん叶ったのだ。

ソロコンサートを開くこと。
オーディションでファイナルに進んだこと。
歌い手さんと声楽コンクールやクリスマスコンサートで共演すること。
学校のミュージシャンの方たちとコンサートをすること。
オーケストラとピアノコンチェルトを演奏すること。

Nコン降板という挫折を17歳の私に味合わせたのはピアノだった。
がむしゃらにやりさえすればできると思いあがった当時の私は、見事に崖に突き落とされた。
けれども、崖から引っ張り上げてくれたのも、またピアノだった。

そしてとうとう2018年の2月、アレクサンダーの最終実技試験に私は合格する。
入学して6年の月日が流れていた。

現在アレクサンダーテクニーク教師(仮免許)と認められて、学校に通いつつ、教育実習を行っている。
生徒さんは、私が体験したような体への悪弊を防ぎつつ、演奏のパフォーマンスを高めることができるのだ。

またこれは、やりたいことに使うのが最も有効だという。だから、私は特にピアノを弾く人を対象にレッスンをしている。私の経験をダイレクトに生かすことができる。

自分が人になにかを教える資格を取ることになろうとは。
一番驚いているのはほかならぬ私自身だ。

私はピアノのため、多少のテクニックと引き換えに、体の不調を起こしてしまった。正直、自分のピアノへの不信感が拭えなかった。しかし、30年前ただの高校生だったの私が、よもや不調を防げるような秘訣が存在するなんて知るはずなかった。大人だって同様だった。

今思えば、私のピアノは砂上の楼閣だった。
体のコアを無視して指だけ動かせばなんでも弾けると信じて疑わなかった。

これでよかったのだ、と思う。

遠回りもしたけれど、私の挫折から生まれた私のレッスンが今、ほかの人を助けている。

先日10回の実習レッスンを終えたのは音楽大学2年生の女性だ。
ピアノの生徒にすぎなかった私が、ピアノを学ぶ、将来のある人たちの教育に関わっている。

学生さんだけではない。
物理学者として社会の役に立とうという研究者の女性は、ショパンのエチュードを弾く喜びを見出した。
講師演奏でラヴェルの水の戯れを弾こうというピアノの先生もいる。
還暦をすぎた男性がピアノをもう一度弾いてみようという気になってくれた。
公募を勝ち抜いて音楽祭に出演し、室内楽のフルリサイタルを演奏した人もいる。
企業で働きながらリストの大曲を弾きたいという方もいる。

間違ったピアノ練習をしすぎて世界を恨みたくなった17歳の私が思いもしなかったことが、今起きている。ほかの人が上手になる手助けができる私がいる。

自分が上手に弾ける人はゴマンといても、私と同じレッスンができる人はそうはいないはずだ。

私がこれから人に貢献できるとしたら、それもピアノなのだ。

来年の私は、今の私より、少しばかり、力がついているだろう。
何より私には、自分に使い、人に伝えるアレクサンダーがあるのだから。

9歳でピアノを始めた私は来月50歳になる。その41年間の体験とアレクサンダーの学びを集大成したものが、美しい音を探求するピアノボディスクールだ。

実習が終わったらグループレッスンを開き、いよいよ私は学校を卒業することになる。

今度こそ、ピアノはアレクサンダーとともに私を羽ばたかせる翼となってくれるに違いない。
私の生徒さんを羽ばたかせくれるに違いない。

私は、わたしのレッスンがあなたの翼になると信じています。
ただ今、最終実習レッスンの募集中です。

2018年7 月5 日

美しい音を探求するピアノボディスクール
アレクサンダーテクニーク教師(仮免許)

北川香里

☆実習受講生募集:2名様限定
☆期間を緩和しました! 7/16-9/15の間に10回受けられる方。
☆終了時に簡単なレポートを提出していただきます。
☆事前に手数料(15,000円)を学校に入金していただきます。
☆講師の勉強という側面を理解いただける方。

レッスンの詳細、お申し込み HP https://kaorikitagawa.jimdo.com
実習のお問い合わせ Email kaorilavender8@gmail.com
TwitterDM kaorilavender
FB Kaorin Kitagawa
  • 2018/07/05 (Thu) 10:56