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きたがわ かおり アレクサンダーテクニーク教師(仮免許)

8月に浴衣を出すとしんみりするわけ

「ゆかたと帯のレンタル500円だって。着物、好きなんでしょ?」
夫がわたしに声をかけた。幼稚園だった息子と三人で鬼怒川温泉に泊まった時、ホテルが女性用ゆかたをレンタルしていた時のことだ。もちろん「館内はゆかたスリッパでOKです」のゆかたではなく、花火に着ていくような華やかなものだ。
「うん、それはいいの」
真冬に思いがけずゆかたを目にしたわたしは、夫の提案を断りながら、あるゆかたに思いを馳せていた。

今わたしの手元にあるのは、緑がかったブルーのクレープ地で、夏らしい模様が施されているゆかただ。クラシックなデザインで、今風のものとはどことなく違う雰囲気がある。やまぶき色の帯と合わせるとよく映える。

「これお嬢さんに」
小さい頃から数年に一度、ゆかたをプレゼントしてくれるおばさんがいた。うちの家業でお付き合いのあるSさんだった。贈答品といえばハムやサラダ油、そうめんなどが主流だった昭和の当時、私と妹にゆかたを仕立てて贈ってくださるのだ。

はじめてのゆかたの記憶は白地に金魚のデザインのもので、幼稚園の夏祭りで着たはずだ。小学校の頃にいただいたのは濃紺の地に花火を思わせるデザインがされていて、幼いながら濃い紺色がクールで好きだった。

ひと夏に4か所の盆踊りに参加したときも、Sさんのくださったゆかたを着て行ったものだった。兵児帯という、絞り染めのくしゃくしゃした帯をしたのはその時までだ。隅田川の花火を見に行くときの濃い色味のゆかたには、赤い帯をしめた。そして今あるのが、最後に大人サイズのわたしがいただいたブルーグリーンのものだ。

浴衣にはその時代に流行のデザインというものがある。Sさんがくださるのは、いつもそういうものとは一線を画した伝統的なものだった。友達のものとはなにか違うと感じたが、本物とは得てして一見地味にみえる、こういうもののはずだ、と幼いながらわたしも察していたらしく、なにも言わなかった。

一つだけSさんの手によらないゆかたがあった。わたしが高校の授業で縫ったものだ。糸が見えやすいように白地に朝顔の生地を選んで、チクチクと針で縫った。悪戦苦闘したのち、こっそり母の助けを得て完成したそれは、夏のデートで日の目を見た。が、祖母がお風呂で急死したとき、とりあえず着せるのに使われるという、きわめて不運な別れをしてしまった。その幻の一着を除くと、ゆかたといえばSさんのものだった。

Sさんはいつもニコニコしていた。こんなに普段からニコニコしている人はいない、というくらい、誰よりもほがらかだった。目を細めているので、目を開いているところを見た記憶がない。同年代の人より腰の曲がりがやや目立っていて、いっそう小柄に見えた。

そうしてSさんのゆかたに袖を通して時がたち、わたしが嫁ぐ日が来た。当日は白いドレスなので、和装は前もって写真を撮っていた。朱色の打掛に文金高島田、白無垢に綿帽子の二本立てだ。式の前の日にできあがったアルバムを、わたしは家を出る朝にSさんに見せることができた。

「まあ立派な方で。よかったですねぇ」
「おきれいねぇ」
「ほんと、おめでたいですねぇ」
とても喜んでくれた。かつてないほど目を細めて。

ベイエリアの式場へ向かうタクシーの中で、幸せいっぱいなはずのわたしの胸がチクリと痛む。Sさんのその日はどんなものだったのだろうか、と。

母は、誰かがいらっしゃった後、その人のプチ情報を私の耳に入れることがあった。母の話と、Sさんご本人から聞かれた言葉を、私は十数年がかりで脳内で少しずつ統合していった。

Sさんは戦争中ご主人と結婚した。それも、出征の直前に急いで結婚させられた。妊娠したSさんを残してご主人はすぐ戦死された。それから子どもを一人で育てて暮らしてきた。生活のためにいろいろな仕事をしてきた。

いつも笑顔でやさしく話してくれるSさんと、そんな苦労に満ちた人生。私の中でどうにも結びつかない。そもそもこの青い東京の空の下で、戦争があったことが想像できない。

貸衣装を着せ替えてウェディング写真をとり、レストランで人前式と披露宴をする。ゼクシィから抜け出したようなわたしの結婚とはまるで別世界に思えた。

「花火はゆかたで行こうかな」
そう考えるとき、わたしにはいつもSさんのゆかたがあった。ほかのものを買い求めようと一度も思わなかった。それはSさんがひとりで生きるために身につけた技術で仕立ててくれたものだ。和裁は家で、仕事から帰ったあと、子どもが寝たあとにもできる。わたしにゆかたをあつらえてくださるより前、生きるために夜なべをする若いSさんの姿が思い浮んだ。

Sさんの浴衣のデザインが古典的だったのも、たんに彼女がお年を召しているからではない。預かった反物を裁って縫ううちに反物を見る目は肥える。本物とはどういうものかを知り尽くしたSさんは、当然わたし向けにもその審美眼で選んでくれたのだ。

Sさんはなぜかいつも一度も採寸することもなく、新しいゆかたを作ってきてくれた。記憶でみたわたしの姿から、次のときのわたしのサイズを予測していたのだろうか。若い男子はよく「彼女の思いのこもった手編みのマフラーは重い」などというらしいが、不思議なことにSさんのゆかたはそんなことも感じさせなかった。

Sさんは小銭を扱うことやそろばんが得意だった。それは生計を立てるため保険料の集金をしていたからだ。
「主人が亡くなってこうやって保険の仕事、してきましたからね。慣れてるんですよ」

そう話す時、Sさんの声にも表情にも一切の翳りは見えなかった。いや翳りがなかったのではない。わたしがSさんの笑顔をそのまま受け取っていたのは、単に子どもだったからだ。  

嫁いだときわたしより若かったであろうSさんが、新婚生活もないまま、夫を失い、戦争中にお子さんを生んだ。そんな人生に苦労がなかったはずがない。

Sさんは、働いて子どもを養い、生きていくなかで、自分の人生を正面から受け止め、一切の恨みごとも翳りも捨てようとされたに違いない。わたしが見ていたのは、おそらく何十万針も縫った、その末の笑顔なのだ。苦労を乗り越えたSさんは、せめて若いわたしは華やかなゆかたで装うことができるようにと贈ってくれていたのではないか。

もうすぐ8月の終戦記念日が来る。強い日差しと蝉の声。盆踊りが近づくと、わたしはゆかたとともにSさんのことを思い出す。今年はブルーグリーンのゆかたに袖を通して出かけてみようかと思う。

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