悪口をいわれたら喜んでいい理由

悪口

「北川さんってさ~、ああいうところがだめなんだよ」

噂をされたり、人の噂を耳にしたりして嫌な思いをしたことは、小学校から始まって、数え切れないほどあった気がする。

中学と高校は6年間同じところだったので、陰口や噂に明け暮れる人間の集団に辟易した記憶が鮮明だ。が、ノーベル経済学賞のダニエル・カーネマンが言う通り、得より損を倍に感じるのが、人間の生存戦略として正しいものらしい。また、女性というのは口コミで生存に有利な情報を交換するものらしい。

さて、月日は流れ、そういう人間の特徴をずいぶん理解するようになった私は、あるスキルを活かした活動をしていた。しばらくしたころ、心ある人が私に教えてくれた。

私のいない席で、Aさんが冒頭のように私の話をし始めたらしいのだ。
心あるBさんは、「まあまあ、本人のいないところでやめようよ」と遮ってくれたらしい。

噂に出た私の悪いところがなんであるかは、Bさんが教えてくれた。なるほどそれも一理あると思い、私は改善することにした。とにかく、そんな形で自分が話に出されたことは少々驚きだった。Aさんとは私語などかわさないあいだ柄だった。

ここに二つの立場がある。

噂した人。Aさん。
噂されかけた人。私。

噂というか悪口をいわれるほど私は邪悪な人間なのだろうか?
聖人ではないのは自覚している。でも、貢献するために目立つっていたにすぎない。

自分に弁護の余地もあるとみた私は、自分なりに悪口を言われる人の特徴と、私にそれらがどう当てはまるかを考えてみる。

目立っている。それは確かにそうだ。目立って観察されなければ、文句も言われない。
前向きである。目立つようなことを自らやろうとする前向きさがある。
行動している。貢献しているし、うん。
活躍している。確かになにかやっている。
影響力がある。良くも悪くも、Aさんが欠点を気にしてしまうほど、刺激を与えている。
話題になっている。それはもう、本当に、話題になりました。
NOT NORMALである。確かに大多数の人とは違う役割を果たしている。
存在感がある。嫌でも目に入るだろう。
出る杭は打たれる。その言葉のいい例に違いない。

なんにせよ、その力があるから目立つことをやっているのだ。素晴らしいことじゃないか。

ちなみに、私に限らずそういう立場の人は、たいてい何かを言われると思われる。その陰口に一理あることもあるが、言う側は負けているのだ。その助けなくして困るのはその人たちだ。その人たちができないことができるから、私は矢面に立つ。

そこで思い出すのは、合唱団でピアノ奏者とそれに文句をつける人の構図だ。

私も合唱部でピアノを弾いたのでいえるのだが、ピアノの悪口を言う人はそれほど弾けない。その時点で負けているどころか、そもそもお話にならない腕前だったりする。

私ならああいう風に弾くのに、とか、私のほうがうまいのに、と言うなら百歩譲ってまだわかる。それどころか、スキルゼロで陰口を言う側は、スタート地点に立ってさえいない。自信があることはいいことだ、が。

いっておくが、ピアノ奏者は自分が天才でないことを重々承知している。それでも音楽のために前に出るというリスクを冒しているのだ。

文句を言われてもしかたないピアノ奏者もいるかもしれないが、熟練した技術を要するその役割をしてくれる人がいてはじめて、合唱が歌えることに変わりはない。

お世話になっている人の悪口を言う自分に気づいたら、わたしならは悶絶する。
悪口を言われる側よりも、言っている自分のほうがはるかに劣るなら、わたしなら憤死する。

ピアニストの陰口をいうことで演奏がよくなるならそれもいい。

実際はそうはならない。むしろ悪口をいうとやばい。自分はだめだ、とさらに暗示をかけているのだから。

脳は人称、つまり英語のIとかYouを、区別できないらしいのだ。だから、あいつはだめな奴だ、というと、自分はダメな奴だ、と脳は聞いてしまう。恐ろしい話である。

昔、嫌いな芸能人のランキングに、松田聖子が入っていた。好きな芸能人にも入っていたと思う。両方にランクインすることはじゅうぶん理解できる。確かに彼女は悪口を言われる側の条件に当てはまっているからだ。

そう。悪口を言われるということは、人気芸能人の域に達した快挙、全盛期の松田聖子ポジションについたのと同じなのだ。だから、悪く言われるのも捨てたものではない、と喜んでおくことにする。

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